大田原火砕流

最終更新 2020.10.21

大田原火砕流

 栃木県北部に広く分布する大田原火砕流堆積物という地層があります。館ノ川凝灰岩と呼ばれることもあります。軽石を多く含み、段丘崖や丘陵を削る川の河岸などに露出しています。わかりやすいところでは、矢板市の川崎城址南側にある崖の大部分の地層が大田原火砕流堆積物です。


大田原火砕流堆積物の露頭写真。大型の軽石が密集しています。矢板市館ノ川にて。[画像クリックで拡大]
出典: 産総研地質調査総合センター 外部リンク絵で見る地球科学「軽石流堆積物」 外部リンク

 大田原火砕流堆積物は、分布範囲のとても広い地層です。現在では、新しい時代の堆積物に埋もれたり、削剥により失われたりしていますが、噴火当時には栃木県北部が広大な火砕流台地になっていたものと思われます。


大田原火砕流堆積物の分布域。高原火山から東方に広大な分布を示します。宇都宮市街地付近で見つけたという報告もあるので、分布範囲が更に広い可能性もあります。[画像クリックで拡大]
出典: 産総研地質調査総合センター 外部リンク地質調査所報告 No. 269 (尾上, 1989) 外部リンク の第6図を利用し、本ページ用に説明を加筆。

 その分布範囲や、堆積物に含まれている軽石のサイズから推定して、大田原火砕流の給源は、塩原カルデラであると言われています (尾上, 1989)。大田原火砕流が広大な分布を示すのは、カルデラをつくるような巨大噴火が理由だったわけですね。 (塩原カルデラについては別ページを参照)。

 2000年代以降、大田原火砕流堆積物についての火山層序学的な研究が活発に行われるようになりました (弦巻ほか, 2009; 河合・鈴木, 2011; 山田ほか, 2018など)。その結果、大田原火砕流と呼ばれてきた地層は、実は噴出時代のやや異なる3層からなっていることが分かってきました。以下では、主に山田ほか (2018) に基づいて要約します。

 塩原カルデラを起源とする火砕流堆積物は全部で3層あり、下位から塩原片俣火砕流堆積物、塩原田野畑火砕流堆積物、塩原大田原テフラと命名されています。このうち、最上位の塩原大田原テフラが最も規模が大きく、火砕流堆積物に加えて降下堆積物なども含まれています。

地層名 略称 年代 備考
塩原大田原テフラ So-OT 30万~30万7千年前 軽石流およびスコリア流堆積物、火砕サージ堆積物、降下堆積物
塩原田野原火砕流堆積物 So-TN 30万~30万7千年前 軽石流およびスコリア流堆積物
塩原片俣火砕流堆積物 So-KT 30万7千~41万年前 軽石流堆積物

 これらの火砕流堆積物は、他のテフラ (特に大町APmテフラ群) との層位関係から、いずれも300~410 kaの期間に噴出したと考えられています (山田ほか, 2018)。

 これらの火砕流堆積物のうち、最上位の塩原大田原テフラは最も規模が大きく、3ユニットからなる火砕流堆積物のほか、降下堆積物、火砕サージ堆積物を伴っています。

ステージ ユニット 説明 備考
3. 軽石流とスコリア流の発生 So-OT pfd-u スコリア流
So-OT pfd-m 軽石流 広範囲に分布 (主に東側に流下)
So-OT pfd-l 軽石流 主に北側 (一部東側) に流下
2. 火砕サージの発生 So-OT sg 火山灰流
1. プリニー式噴火と
 火山灰の降下
So-OT pfa 降下軽石層

大田原火砕流と那珂川の貫流

 大田原火砕流のもうひとつの重要性として、茨城県側の丘陵との地層の対比があります。現在、那珂川は八溝山地を横切って太平洋に直接流れ下っていますが、このような流路になったのは最近数十万年の間で、それ以前は鬼怒川などと同様に栃木県内を南へ流れ下っていたと考えられています。では、いつ頃から現在の流路になったのかが問題ですが、まだ明確には解明されていません。しかし、那珂川下流に位置する茨城県の瓜連丘陵の地層を調べると、それまで久慈川流域起源の礫ばかり堆積していたところに、突如として大量の火山岩を含む地層 (粟河 (あわかわ) 軽石層) が出現することがわかっており、この地層が那珂川貫流の最初の証拠と考えられています (坂本・宇野沢, 1976)。


八溝山地を貫流する那珂川 (南方からの鳥瞰図)。烏山から御前山まで、那珂川は蛇行した狭い谷を刻みながら八溝山地を横切っていきます。[画像クリックで拡大]
出典: 地理院地図 傾斜量図 外部リンク陰影起伏図 外部リンク を基にQGISのプラグイン「QGIS2threejs」を利用して製作。

 この粟河軽石層が大田原火砕流の二次堆積物である可能性があるのです。大田原火砕流噴出当時、現在の喜連川丘陵付近には「喜連川湖」と呼ばれる湖があったとみられています (鈴木・阿久津, 1955; 小池, 1961)。ここに北西から大田原火砕流が流れ込んで地形が激変した結果、それまで栃木県内を南流していた那珂川の流路が、ついに八溝山地を貫流する方向に変わるとともに、粟河軽石層を堆積させたと考えられるわけです。

 河川が山地を浸食するのは長い時間が必要ですから、那珂川が流路を変える以前に、久慈川の支流として茨城県側にあった旧那珂川の谷が、八溝山地をかなり浸食していたことは確かでしょう。一方、栃木県内では大田原火砕流が北西から平地を埋め尽くしてしまったため、北から南に流れていた当時の河川が平地の東の端 (八溝山地の縁辺部) だけを流れるようになります。そして、浸食が進むうちに、すぐ近くまで来ていた茨城県側の流路と合体し、八溝山地を貫流するようになったと推定されています (小池, 1961; 小池ほか, 1985)。

 実は、粟河軽石層は厚さ6 m以上にもなる火山性の土石流堆積物で、通常の堆積作用では火山から遠く離れた瓜連丘陵に堆積するはずのない地層です。したがって、坂本・宇野沢 (1976) では、「"喜連川湖"への大量の火山噴出物の流入」にともなう決潰・洪水があったかもしれないと想定しています (ただし、それが大田原火砕流であるとまでは断定しませんでした)。

 2000年代以降、粟河軽石層を大田原火砕流ではなく、別の火山噴出物に対比する説が提唱されています。大井ほか (2008) は粟河軽石層をもっと古い芦野火砕流に対比するとともに、粟河軽石層直下に最大層厚8 mの安山岩火砕流堆積物を認め、これを那須火山起源の鎌房山火砕流であると考えています。一方、菊池・長谷川 (2020) は、粟河軽石層を那須火山起源の余笹川岩屑なだれ堆積物に対比しています (余笹川岩屑なだれ堆積物については、「那須火山群の地質」の「那須火山群の火山活動と山体崩壊」を参照)。ただ、いずれの場合も大田原火砕流の層位に近いことは確かで、大田原火砕流を含むこの時期の大規模火山噴火と那珂川の貫流とが密接に関係していることは有力なシナリオと言えそうです。

 ちなみに、「粟河」とは常陸風土記那賀郡の条に出てくるという那珂川の古名です。通常、地層の名は代表的な露頭のある場所 (模式地) の地名、それも地形図に掲載されている地名をつけるのが普通です。しかし、坂本・宇野沢 (1976) は「この地層は那珂川が現在の水系をとるにいたった事件と直接の関係があると思われる」ために、あえて通常とは異なる名前の付け方をしたのです。

参考文献