鬼怒川の歴史と地形・地質

2021.1.10 公開


鬼怒川の概要

 鬼怒川は群馬県との県境に位置する鬼怒沼を源流として、鬼怒川温泉や宇都宮市東部を経て茨城県に至り、そのまま南流して千葉県との県境で利根川に合流する栃木県を代表する河川です。現在、鬼怒川は利根川の支流と呼ばれることになりましたが、よく知られるように江戸時代以前は利根川は江戸に流れており、鬼怒川が直接海 (当時存在した「香取海」と呼ばれる内海) に注いでいました。地質学的に見た鬼怒川は、栃木県と茨城県を貫流し、太平洋に至る巨大河川です。従って、栃木県と茨城県の台地および低地の成り立ちと環境に多大な影響を与えています。

氏家付近を流れる鬼怒川の様子。広い河川敷を大きな礫が埋めています。左に写っているのが氏家大橋。左奥の遠景は高原山。2000年10月撮影。

鬼怒川の過去の流路

 鬼怒川の流路は、各所での変遷を繰り返してきました。歴史に残る江戸時代の利根川東遷に伴う人工的な瀬替え (大木開削) は有名ですが、それ以外にも各所で流路変更工事が行われています。更に、歴史時代以前の長い時間には、鬼怒川は栃木県・茨城県内の様々な場所を流れていました。1970年代の砂利採取の盛んな時代に現れた地質断面の調査結果 (池田ほか, 1977) からは、次のような過去の流路が明らかになっています。

  • 現在の鬼怒川の流路には、気候が温暖になる6000年前頃に移ったものと考えられています。
  • その前、気候が寒冷化していた2万年前頃 (最終氷期) までは、現在の五行川・小貝川の流域を流れていました。
  • 更に、3~2万年より前には鬼怒川は現在の五行川・小貝川の流域を通って、土浦 (現在の桜川下流部) へと流れ下っていました。

地図上で見る鬼怒川の流路。水色が6000年以降の現世における鬼怒川の流路。青色が6000年~2万年前頃 (最終氷期) の時期の流路、紫色が2~3万年前の流路。ただし、現在よりも温暖な時期には、海がより内陸まで進入していました。地理院地図 陰影起伏図 外部リンク傾斜量図 外部リンク を利用して作成。

段丘からみた鬼怒川の流路変遷

 段丘は下位の段丘礫層と上位のローム層からできています (「段丘堆積物」を参照)。礫層はもちろん川が運んだものですが、ローム層は風成堆積物すなわち風に飛ばされてきた細かな粒子がわずかずつたまってできた地層です。従って、川が流れていたら堆積することはできません。このことは逆に、ローム層が厚く堆積している段丘堆積物のある場所は、川が流れなくなって久しい場所と言うことができます。段丘礫層の上にローム層が堆積し始めた年代を、段丘の「離水年代」と呼びます。

 このような段丘の特徴に基づいて、過去の時代に川がどこを流れていたかをある程度推測することができます。すなわち、ある時点より古い離水年代の段丘の分布域には、既に川は流れていなかったことになるわけです。以下には、段丘堆積物の分布に基づき (鈴木, 2000、山元, 2006)、過去30万年くらい前までの鬼怒川の流路 (流れた可能性のある場所) を、大雑把ではありますが示してみました。

河岸段丘の分布から見た約1万年より後の時代の鬼怒川の流路。白地の部分が、川の流れうる低地に相当します。この時代の鬼怒川は氏家で西と東に流路が分かれ、現在の鬼怒川流域または現在の五行川流域のいずれか、ないしは両方を流れていたと考えられます。
出典:産総研地質調査総合センター 外部リンク「栃木県シームレス地質図」 外部リンク を利用して作成。

河岸段丘の分布から見た約2~15万年前頃の鬼怒川の流路。この時代も氏家で西と東に流路が分かれますが、流れていた可能性のある範囲が広くなり、JR宇都宮駅付近もその一部に当たります。また、荒川の谷に流れ込んで喜連川を経て那珂川へと流れていた可能性もあります。
出典:産総研地質調査総合センター 外部リンク「栃木県シームレス地質図」 外部リンク を利用して作成。

河岸段丘の分布から見た約30万年前頃の鬼怒川の流路。この時代まで遡ると、もう地質にも証拠が残されていないので、広い平地のどこを流れていたのかは定かではありません。
出典:産総研地質調査総合センター 外部リンク「栃木県シームレス地質図」 外部リンク を利用して作成。

鬼怒川の流路変遷の原因

 鬼怒川の流路が変わった原因は、はっきりとはわかっていません。一般に、流路変遷の原因となるのは地殻変動、短期間での大量の堆積物の供給、河川争奪などです。

 地殻変動の影響は、斜面の傾斜の変化 (傾動) に現れます。ただし、栃木県内における鬼怒川の流域では、特に顕著な傾動の例は見られません。ただし、茨城県内の場合には、現在の海岸地域の隆起に伴い、河床勾配が著しく緩やかになっており、流速が極めて遅くなるという影響が現れています。

 堆積物の供給は鬼怒川の流路に影響を与えたことが予想されます。鬼怒川の上流部には日光火山群があり、この数十万年の間、活動を続けてきました。このため、支流の大谷川とともに鬼怒川は大量の礫や砂を流域にもたらしたはずです。特に大谷川の砂礫は今市扇状地をあふれ、鬼怒川に流下してきました (今市扇状地とその周辺の3D地質図はこちら)。それら堆積物は鬼怒川を通じて下流に広大な段丘地形およびその段丘堆積物を残しています。

 河川争奪は、明らかなものはありませんが、疑わしいものはあります。それが荒川と鬼怒川の関係です。もっとも、この場合も堆積物の供給が大いに関係しているといえます。以下に少し詳しく述べます。

鬼怒川と荒川の関係

 荒川は高原火山群やその麓の山々からの水を集め、南東に流れ下ってきます。一方、鬼怒川は山地から平地に出た後に、大谷川とも合流して東南東に流れ下っていきます。鬼怒川と荒川が最も接近するのは鬼怒川の上平橋から東北高速道路の鬼怒川橋にかけての付近ですが、両河川の河川敷の距離は1 kmほどしかありません。

地図上で見る鬼怒川と荒川の関係。矢印を見ると、両河川が接近する場所がまさに「交差点」になっていることがわかります。地理院地図 陰影起伏図 外部リンク傾斜量図 外部リンク および 標準地図 (水域) 外部リンク を利用して作成。

 両河川の間にある地形はやや段丘化してはいるものの (蒲須坂段丘; 鈴木, 2000)、沖積層の自然堤防とそれほど大差はなく、分水嶺と呼べるような明瞭な高まりは見られません。しかし、荒川はここから東に向きを変え、鬼怒川は南東に向きを変えて、それぞれ別々のルートで海を目指すのです。鬼怒川は日光火山群からの、荒川は高原火山群からの砂礫を運んできています。火山の活動時期によってその量は変わるでしょうが、供給量が多いときには荒川の河床が高くなり、鬼怒川の流路にまで堆積物が押し寄せて、荒川が鬼怒川に流れ込んでいた時期があったかもしれません。一方で、鬼怒川の堆積物供給量が過剰な時期には、逆に鬼怒川の河床が扇状地状に広がり、荒川の流路に流れ込んでいたことも考えられます。

鬼怒川と荒川の接近する地域の地形陰影彩段図。鬼怒川と荒川の間に顕著な高まりはありませんが、ここが那珂川水系と利根川水系の分水界です。地理院地図 陰影起伏図 外部リンク傾斜量図 外部リンク および 基盤地図情報 数値標高モデル 外部リンク を利用してQGISで作成。

 そもそも、この付近で荒川が東向きに流れているのは、鬼怒川の堆積物に押しやられてそうなっている可能性も高いと思われます。他の小さな河川を見ても、この付近の谷は南北方向に向いているのが普通です。荒川も本来は自然にその方向に流れていたはずで、何か理由がなければ、わざわざ喜連川丘陵を横切って那珂川に合流する今のような流路は不自然です。蒲須坂段丘の離水年代は1.6~1.3万年前と考えられており (鈴木, 2000)、ちょうど男体火山の成長した直後の時期となります。それ以降、日光火山群および高原火山群ともに激しい噴火活動は起きていないことから、土砂の供給も特に増えなかったために鬼怒川も荒川も河床が上昇することはなく、流路が固定されて現在に至っていると考えられます。

鬼怒川の河床勾配

 堆積物の供給に直結する鬼怒川の流れを、河床勾配から見てみましょう。鬼怒川の河床勾配は、上流域ではもちろん、中流域でもかなり急です。このため、栃木県内の鬼怒川の流路は網状河川状の形態を呈し、目立った蛇行は見られません。一方で、下流域になると、栃木県と茨城県の県境付近から河床勾配は一段緩やかになります。同時に大きく蛇行を繰り返すようにもなり、歴史時代の瀬替えも各所で行われています。

鬼怒川の河床勾配を示した断面図。左上は中~下流域を誇張 (標高を10倍に拡大) したもの。栃木県内と茨城県内では河床勾配がかなり違うことがわかります。 地理院地図 外部リンク の断面図ツールを利用して作成。

 県境を挟んで河床勾配が変化するという上記の特徴は、近年の水害の傾向にも反映されています。河床勾配の大きい栃木県内では、増水した水は急流となって流れ、橋梁や堤防を痛めることになります。一方で、その水の流れが緩やかになる茨城県内では、下流への排水が進まないために水位が上昇し、堤防の低い箇所を越水したり、場合によっては決壊させたりすることになります。平成27年 (2015年) 9月の関東・東北豪雨による増水は、茨城県常総市 (水海道) における観測記録史上第一位だったそうで、堤防越水・決壊によって甚大な被害をもたらすことになりました (鬼怒川堤防調査委員会, 2016)。

参考文献

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